システムとしての浅蜊

私がまだ小学校に入学する前だった。
当時住んでいた社宅はアパートで、細長いベランダがあった。
鉢植えが並んでいて、隅の方には釣竿が立てかけてあって、私の遊び場だった。
ある日バケツが置いてあったので見ると、
浅く水が張ってあって底には貝がたくさんいた。
その時の私が知らなかった言葉でいえば、二枚貝だ。
触ってみた。
誰かがひゅんっと水を吹いた。
楽しくなってつついて遊んだ。かわいいなあ。
夕ご飯、浅蜊のお味噌汁が出た。
貝から身を外して食べたときになんだかおかしいなと思った。
食べ終わってベランダに行ってみると、バケツは空になってひっくり返されていた。
オサナゴコロに大変ショックだった。
さっきの食べちゃった。


私が生き物を食べているということを認識した最初の一撃でした。
この経験が効いているのか、浅蜊を食べるときは今でも
「あー、さっきまで水吹いてたんだなあ」と何か小さな段差を乗り越えるような気分がする。
それに浅蜊を自分で蒸せない。
口を開くのを見るたびにその段差がぽこぽこできるからだ。
甘いんだ私は。


このことを大人になってから知人に話したら
浅蜊が生き物なんて考えたこともない。
 水吹くのだってあれはああいうシステムよ」と言われた。
そりゃね。
私もくしゃみをシステムとしてします。


何でこうつらつらと書いているかというと、外で浅蜊ご飯を食べたら美味しくて
ボンゴレも食べたいなと思ったからで、
さらに昔行った潮干狩りも楽しかったなあと思い出したからだったのでした。
しかし私はまだ生き浅蜊を火にくべられないし、
塩抜きしようと塩水につけた瞬間、こいつらを飼いたいと思ってしまうのは間違いないのでした。